先日、福岡で開催されたぐっち~ご夫妻によるレクチャーつきの楽しいイベント、「南インド料理を味わおう」で知り合ったHさんが誘ってくださり、たまたま共通の知人であった仲良しカップルのTさんPさん、そしてPさんのヨガ仲間で当日初対面となったSさん、A-2さんやKさんと、「パニープリーが食べられるよ」という誘い文句につられて、博多駅近くの穴場ネパール料理店「バジェコセクワハウス」で楽しい夜を過ごしてきた。
バジェコセクワハウス - Tabe-log
店は2階まであって大変広々としており、ゆったりできる。
Tさんによると、ここは面倒見の良いネパール人の「おじいちゃん」が経営しているアットホームな店。
当日、残念ながら「おじいちゃん」は留守だったが、変わって対応してくださったスタッフたちは全員、大変礼儀正しく、丁寧な日本語を話すネパール人だった。
なおどなたも全般的にお若く、在日歴半年~3年ほどといい、「おじいちゃん」がポカラで経営する日本語学校を経由して来日されているようだ。
一様に「福岡が大好きだから、これからもずっと住み続けたい」とおっしゃっていたのが印象的だった。
さて、飲み放題がお得な2,000円ということで迷わずこちらをオーダー、乾杯を終えるやさっそく次々とネパール料理が運ばれてきた。
なお店名となっている「バジェコセクワ」とは、ずばりネパール語で「おじいちゃんの肉料理」を指すようだ。
メニューも昨日のASKSiddhi記事で取り上げた例のような変なローカライズに走らず、ネパールでの名称をそのまま使っているものが多く、わたしはかえって好感を持った。
「バジェコセクワハウス」メニューの一部はこちら - Google Photos
もちろん、記事冒頭の写真の通り、念願のパニープリーも堪能した。
わたしにとってなじみのあるマハーラーシュトラ州のパニープリーは、フィリングとして茹でジャガイモに軽くチャートマサラを振った程度のものに、シェウ(こちらのリンクはシェウプリだが、このトッピング部分をシェウと呼ぶ)をちょっと添えてプリーの中に詰めて食べる。
このため、この店のように茹でジャガイモと豆のペーストが混ざったフィリングは珍しく感じた。
料理はどれも辛さ控えめながら、確かなうまみを感じられて、いくらでも食べられそうだ。
ネパール料理の王道、モモは驚くほどジューシー。
炒り大豆をマサラで味付けした香ばしい一品「バトマスサデコ」。
ビールにぴったり。
インドの「マギー」のようなフライドヌードルだが、プロ仕様。
アールージーラもあった。
ジーらを惜しげなく使った、ハイウェイレストラン(ढाबा)仕様のしっかりした味。
「スクティ」だったか(うろ覚え)。
確かな肉の旨味を感じられる。
クリスピーなインスタント麺をキュウリと一緒にサラダっぽく和えてある、
夏らしい一品。
こちらもビールにうってつけ。
肉料理のアソート、ミックスセクワ。
とてもジューシーだった。
料理はほかにも、スープ麺のトゥクパを含めて2~3皿は注文したと思うが、あっという間に参加者7名の胃袋に消えていき、不思議な魅力あふれる味に誰もが大満足だった。
さらに、メニュー1品の値段を見てもお分かりかと思うが、会計も驚くほどリーズナブルだったので、ネパール料理を食べながら気軽に一杯やりたい時には大変おすすめだ。
もちろん、ランチタイムも営業している。
料理もさることながら、この日は参加者の方々との多方面にわたる制御不能型の自由なことこの上ないおしゃべりが楽しかった。
どなたも自分の好きなことに打ち込み、人生を謳歌していらっしゃる方ばかりで、大いに刺激を受けた。
インドに移住して今年ではや15年、何度も一時帰国をしてきたが、帰省先でインド関係の人に積極的に会うようになったのは、この数年だ。
それまでは、一時帰国中ぐらいはインドのことを忘れたいと無意識に思っていたかもしれない。
2009年より数年間、横浜みなとみらいにある横浜市主催のインキュベーションオフィスを借りていたことがある。
このため、帰国のたびにまとまった期間滞在していたのは、実家のある福岡ではなく横浜の方で、そのころは横浜においてインドとの架け橋に尽力されている方々とお知り合いになる機会が多くあった。
ところが実は当時、そうした方々にお目にかかるのは半分仕事だと思っていたところがあったので、ビジネス関係の方々が大部分を占めていたこともあり、なかなか懐に入っていくことができなかったし、わたしもうまく心を開くことができていなかった。
あの時、もう少し積極的に、ビジネス関係だけでなくいろいろな種類のインド関係者と会い、友情を築いておけばよかったのかもしれないと、今になって反省している。
近年、福岡でもさまざまなインド関係者に会いに行くようになり、SNS等でつながるようになってから、第二の祖国と言えるインドのことを、より客観的に、さらに多角的に、見てみたいし、そうすべきであるという態度に自然になることができた。
不勉強であることに変わりなく、自分の無知を恥じる日々を上塗りするような居心地の悪さを感じることがないと言えばウソになるが、それにも増して、多くの日本人の無垢なインド愛に触れることで、なぜか自己肯定感が芽生えることは、自己否定が慢性的な病気のように取り憑くわたしにとっては癒しにもなっている。
なお、一時帰国中にインド人に会う機会は、残念ながらなかなかない。