※写真はアーグラー城から眺めたタージマハル。ヤムナー川の水量も少ないようだ。
デリー訪問記も途中のまま、はや1カ月ほどが経過してしまった。
言い訳をするわけではないが、9月は1週間ほど、タイ(チェンマイとバンコク)に出かけたりしていた。
ただ、タイ旅行を楽しんでいた間も、心の中に棲む、もうひとりの自分から、「デリー訪問記、はよ仕上げろや」と、終始どつかれていたことも事実である。
要するに書きたいことが多すぎて、うまくまとめられないのである。
人様に読んでいただくことを目指す上では、きちんとした、読みやすい文章としてまとめねばならない。
でも、うまくまとまらない。
具体的にはデリーとアーグラーを結ぶシャターブディー・エクスプレス乗車体験のところで、「どう書けば、あの愉快さを分かってもらえるだろう」と考え始めるや、頭がこんがらがってしまうのである。
しなやかな文才に恵まれていない自らを呪う。
それでも、小出しにしてでも旅の記録を綴っていきたいので、ぜひ時折遊びに来ていただけたらうれしいです。
さて、そうこうしているうち、わが街プネ周辺では、唯一まとまった降雨の期待できる季節、通常6月から9月にかけてのモンスーン季における異常な少雨を引き金に、水資源を確保するための予防措置として、プネ自治体による計画断水が始まり、給水タイミングが2日に1度の数時間のみとなった。
プネは比較的水に恵まれた土地であり、市街に水資源を供給するダムは5つもあるが、いずれの貯水量も6割を切るほどまで減っているということだ。
日々の会話では「断水大変ですね」、「雨の恵みが欲しいですね」が挨拶代わりとなり、かように人々の関心は「水」と「雨」に集中している。
しかも「オクトーバーヒート」、つまり日本語にすると「小暑季」と言ってもよいのか、雨季が完全に終わり気温の少し上がってくる10月に入ってしまったので、雨に対する期待は、徐々に失望に変わりつつある。
そんな中、昨晩は比較的、まとまった雨が降ってきた。
傘もささずに濡れながら街を行く人々の顔が、心なしか晴れ晴れと、うれしそうに見えたものだ。
インドに12年も住んでいると、雨が、水が、わたしたちの暮らしに、どれほど大切なものであるかを痛感せずにはいられない。
「鬱陶しい」など、とんでもなく罰当たりな意見である。
朝晩、雨と雷の神
インドラ様(Wikipedia)に「ちょいと水をお分けください」とお祈りするばかりである。
暇を見ては「雨乞いソング」と勝手に呼んでいるショパンの「
雨だれのプレリュード(YouTube)」を、一心に演奏するばかりである。
しかも、わが団地は古い建物なので、こうした計画断水の影響を割とまともに受けている。
いっぽう最近建てられた新しいマンションでは、高層の建物に大勢の住民が暮らすことをはじめから前提としているので、市の給水が停止してしまっても、マンション内で独自の貯水の仕組みをしっかり構築しており、多少のことでは生活にさほど大きな影響を受けないと聞く。
また緊急時には、お金を出して給水タンカーを呼んだりもしているようだ。
わが団地のような物件では、給水のあるとき、各戸それぞれで、バケツというバケツ、容器という容器に一気に水を溜めておき、最低限の備えをしておくというのが一般的である。
またわが家の場合、洗面所だけは天井裏に容量300リットルのタンクを取り付けていて、市の給水と同時に自動的に水が溜まるので、断水時にコックを切り替えるだけで、溜めた水を蛇口やトイレのタンクに流せるような仕組みになっている。
したがってトイレと洗面の水は、節水を心掛けて使用すれば、2人世帯ということもあるが、次の給水のある2日後までは、ひとまず困らないで過ごせている。
しかし狭いわが家の場合、この300リットルタンクの設置がスペース的に限界であるため、ここに溜めた水での洗濯やシャワーは無理である。
給水タンカーは住民感情としてよほどのことがない限り呼ばない。
そもそも、水不足ゆえの断水なのに、金にモノ言わせて給水タンカーを呼んで、自分たちだけ事なきを得るという発想は、倫理的にも、いかがかと思う。
他の人が享受できたかもしれない水を、力づくで奪ってきているわけだから。
さて、こうしてここ1カ月、タイにいた1週間を除いては、身体を洗うのも洗濯も2~3日に1回、という生活を続けている。
そして当初は、「汗をかいたのに身体を洗えなくて気持ち悪い」、「頭や身体が臭い」など、少し潔癖症気味のわたしは、不満ばかりを抱えていた。
ところが最悪の場合、この計画断水は、来年のモンスーンまで続くかもしれない。
そう覚悟を決めたら、意外に気持ちの切り替えも早く、最近ではウェットティッシュで身体を拭ってみたり、ベタベタしがちな頭皮は丁寧にブラッシングし、そこにベビーパウダーを揉み込んでみたりといった代用手段で、結構さっぱり気分になれることが分かった。
するとどうだろう。
毎日、身体を洗えていたにも関わらず、ひそかに気になっていた自分の体臭や、身体の汚れ、頭皮のベタベタ感が、ここ最近、かえって緩和されてきたような気がするのだ。
わたしは臭いには結構敏感で、特に自分の臭いに対しては過敏なほどの反応をしてしまうので、これは恐らく、気のせいではない。
「髪の毛や身体を洗うのは2日に1回でよい」というセオリーは、あながち誤りでもなかったのだな、ということを、強制的ながら身をもって体感している次第である。
個人的には、水不足が解消され、毎日給水されるようになった暁にも、引き続き節水を心掛けるため「2日に1回入浴法」を続けようと思っているぐらいである。
食器の洗浄については、わが家に毎日来てくれているマウシ(ヘルパーさん、「マウシ」とは「おばさん」の敬称)に頭が上がらない。
バケツに溜めた限りある水を最小限利用して、油汚れも固形洗剤をちょんちょんとつけただけで器用に、きれいに落としてくれる。
コーヒーカップなど、水のみで洗える食器の洗浄は、わたしも徐々に要領を得てきたが、マウシの華麗な仕事ぶりと比べたら、半人前の丁稚小僧だ。
ふだんマウシの存在が苦手で、あまり会話を交わすことはないのだが、こういう非常事態に、淡々と、素早く環境に適応する強靭な精神力には、畏れ入る。
仕事を終え、次のご家庭へ向かうマウシには、「धन्यवाद(Dhanyawad;ありがとう)」と深々と頭を下げ、手を合わさずにはいられない。
マウシはいつも、照れ笑いをひとつくれて、去ってゆく。
このように、計画断水という緊急事態が、思わぬ形で心身に影響を及ぼしている。
人間は、便利よりも不便に慣れるよう努力した方が、心の平安が保てるのではないか。
人としての自由を確保できるのではないか。
もちろん家族が多いと、こんな呑気なことを言ってはいられないだろう。
ただ幸いなことに少なくともわが家は、必要最低限の水を確保できていると今は断言できる。
現にわたしはもう既に、ちっとも不便を感じていない。
自宅の貯水タンクの水を節約し、ついでにエアコン代も節約と称して、毎朝スタバに「出勤」するなど、ずる賢い策を講じたりもしているものの、そうした生活を楽しんでいることは事実である。
こんな心理状態でいられるのも、自宅の改装時点で機転を利かせ、上記の300リットル貯水タンクの設置をいち早く判断して備えておいてくれたり、40リットルもあるボトル入りの重い飲用水を定期的に調達してきてくれたり、このほか様々な水回りの重労働を担ってくれている、夫の存在も計り知れない。
実はモンスーン入りしてからこのかた、密かに「いつ来るか」と恐れていた計画断水。
しかし実際に運用され、様々な人たちの助けによって、これに円滑に慣れることができていることによって、かえって謙虚な感謝の気持ちが育まれ、かつ今まで知らなかった自分とも出会えたような気持ちでいる。
市による給水頻度が一層下がり、4日に1回とかになってしまっても、同じような余裕をかませるかどうかは我ながら見所だが。
少なくともインドに住むひとりの人間として、水が限りある資源であることを学び、どこへ行っても水を浪費しないよう心がけることは、わたしにとって当たり前の行動となった。
これもインドの魔法と呼んでいいだろう。
追伸:この記事をアップロードした午後5時現在、またしても激しい夕立がプネにやってきた。インドラ様、ありがとう。できればダムのほうにたくさんお願いするよ。