「誰もが明日、困窮することもある」そして「誰もが生きる権利がある」

 

Posted on 26 Aug 2018 21:00 in ASKSiddhiのひとりごと by Yoko Deshmukh

サムネイルは、「Village Food Factory」の動画ひとコマ。必要とする人々にできたてのビルヤーニーを配っています。



数日前からハマっている「Village Food Factory」の動画。

ASKSiddhi記事: 大量の食材を青空の下で調理し、2年間で700万ルピーの広告収入を稼ぐ人気ユーチューバーになった父子

本日は、たくさんの子供たちに手伝ってもらいながら、フィッシュビルヤーニーを作っている動画を観ていた。



 

できあがった大量のビルヤーニーを、手伝ってくれた子供たちはもちろん、めいめい皿を携えてもらいにきた、近所の住民と思しき人々と分け合って食べる。
切り身の魚を具にしているが、ダディだけは自分用に丸ごとの魚を投入、できあがってから1尾丸ごと、豪快にかぶりついた。
すごく、おいしそう!

それでも鍋の中には、まだまだ大量のビルヤーニーが残っている。
これを1~2人分ずつぐらいのホイル製の容器に取り分けておき、夕方になってダディと息子(おそらく撮影者のアルムガムさん)がクルマのトランクに載せて、下町のような場所に持ち込んだ。
そこでは、おそらく明日の糧にも困っている人たちが、子供も含めて大勢待っていて、次々とにビルヤーニーの入った容器を受け取っていく。

現地語が分からないので断定はできないが、誰ひとり父子に「ありがとう」などと言っている様子がなく、我先に来て、当然のようにして取り、さっさと歩き去る。
卑屈な態度の人は皆無で、どなたも実に堂々としている。
配ってる父子も、相手に対する最低限の尊重の姿勢は維持しつつ、特に「いいことしてます」というような偉そうな風を吹かせることなく淡々と配っている。
これは、とても象徴的な風景だなと思った。

わたしもインド家族から、日本のお土産などを買ってきたりしても、よほどのことがない限り「ありがとう」を言われたことがない。
正直に言って、そのことに違和感を抱いたことは少なからずあった。

日本では、何かをしてもらって「ありがとう」を言うことは、当然とされている。
しかし、その「ありがとう」が字面だけで滑っていないだろうか。
「ありがとう」と言っておけば済む、とでも考えているところは、ないだろうか。
毎日「ありがとう」を言い合っているにも関わらず、さらに「お中元」や「お歳暮」と称して「感謝」をカネをかけてモノで伝えることを強要する、矛盾したカルチャーがある。

本日、このようなツイートを見かけた。



日本人の気質をよく表している。

ちょうど昨日、10年来の日本人の友人と自宅でのんびり飲みながら、楽しい話をたくさんしつつも、全世界で大問題となっている食品ロスのことや、先進国とされているはずの日本で、インドのように顕在しないが確実に存在する貧困の問題などについて熱論を交わしていたところだった。

その流れで、「コンビニエンスストアやスーパーなどで、賞味期限が近いという理由だけで毎日、大量の食品が廃棄されている。廃棄処理の時刻があらかじめ分かっているのだから、毎日その時間になったら困った人が、30分から1時間ほどの軽度な作業(店の周りの掃除など、自分にできること)と引き換えに、無料でもらえるようにすればよいのではないか」などと話していた。
割引にしないで労働を対価にすれば、払える人はお金を出して買い、生活が苦しくなり払えない人や、節約したい人は時間を払う、という形で、できるだけ誰もが公平な条件で食品の恩恵を受けられるようにした方がよいと考えたからだ。

やはり上のツイートにあるような自意識が邪魔をして、「貧乏人だと思われる」と恐れてしまうだろうか。
または、日本独特の「自己責任論」で後ろ指を指す人がいるだろうか。

ただし、誰もが頭に入れておきたいことがある。
どんな不便も不自由も、明日は我が身であることを。

災害大国である日本に住むわたしたちは、このことを身に染みて分かっているはずだし、事件や事故に巻き込まれて働けなくなることは、誰にでもあり得る。
必要となった時に救いの手に頼ることは、まったく恥ずかしいことではないし、それこそ「ありがとう」と言えば済むではないか。

一方で、困った人に手を差し伸べる行為は、心の底から相手の立場からものを考え、相手の役に立ちたいという自己の動機によるものでなければならないと思う。
「ありがとう」という言葉すら期待しない。
インドに住んで15年、「ありがとう」を安売りせず、助ける人と助けられる人が(すべての場面でそうとは限らないが)「対等」の関係であるこちらの世界のほうが、ずっと暮らしやすいかもしれないと感じるようになった。

極論すればインドの路上生活者たちのように、「助けてもらって当たり前」という態度は、ある程度は必要だし、できればさらに進化して「困ったときはお互い様。今は他者の助けに頼らせてもらい、将来自分ができるようになれば他の困っている人の力になろう」というカジュアルな態度でいられたら、世の中はずっと暮らしやすくなるだろう。
誰もが、生きる権利がある。

シッダールタによれば、「保険」の概念も、共同体による助け合いの精神が消滅したことによって誕生したのだろうという。
お金で生活の安定を買う。
だから、上辺の「ありがとう」を言っておけば、なんとなくやり過ごせる。
そんな世界になってしまった。

奇跡は起こらないことがある。
誰もが、避けられない事態により、どうしようもない窮地に陥ることはあり得る。
そこに、自己責任の入り込む余地はない。

共同体の価値を見直す時かもしれない。
 





          



About the author

Yoko Deshmukh   (日本語 | English)         
インド・プネ在住歴10年以上の英日・日英フリーランス翻訳者、デシュムク陽子(Yoko Deshmukh)が運営しています。2003年9月30日からインドのプネに住んでいます。

ASKSiddhi is run by Yoko Deshmukh, a native Japanese freelance English - Japanese - English translator who lives in Pune since 30th September 2003.



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