スィン前首相ありがとう、その外交軌跡

 

Posted on 27 Dec 2024 21:00 in インドの政治 by Yoko Deshmukh

追悼の気持ちを込めて、文末にASKSiddhiでこれまでに取り上げたマンモーハン・スィン氏の関連記事を掲載しました。



わたしのインド人生が始まった直後にあたる2004年から2期10年にわたり首相を務めていたこともあり、いまだにわたしにとって首相と呼びたい人であり、ASKSiddhi(アスクスィッディ)でもたびたびその記事を訳し、そして誇りに思える存在であり続けたマンモーハン・スィン(Manmohan Singh)氏が26日、92歳の生涯を閉じた。
その首相の外交軌跡を、「The Hindu」より抄訳したい。

Manmohan Singh left a lasting imprint on India’s external relations

インド洋大津波が襲った2004年12月26日、当時首相に就任してわずか数か月だったスィン首相は、甚大な国家的危機と国際的に試される局面に直面することになった。
20年後の同日に逝去した元首相は、その静かな態度とは裏腹に、発生から数時間でいくつもの大胆な決断を下したことを、当時同氏とともに働いた高級官僚たちは語る。

1つ目は、インドは海外からの援助を受け入れず、国内で危機に対処するという決断を下したこと。
2つ目は、インド洋で23万人以上の命を奪った巨大津波の被災者をインドが支援するということ。
津波の発生から数時間のうちに、政府はインドネシア、スリランカ、モルディブへの海軍と空軍の派遣を承認し、合計32隻のインド艦隊と5,500人の兵士が国際的な支援活動に加わった。
3つ目は、支援に関わる他の国々、特に米国、日本、オーストラリアと定期的な調整を通じ、後の「クアッド」形成につながる会議を重ねたこと。

それから1年も経たないうちに、スィン政権は外務大臣ナトワール・スィン(Natwar Singh)氏による石油と食糧を巡る収賄スキャンダルで辞任を余儀なくされるという、国際的な規模の政治的津波に見舞われ、大臣の交代を余儀なくされた一方、外交政策の主導権を手放さず、当時スィン氏に取材したジャーナリストらは、首相があらゆる国際情勢を綿密に追っていることを総じて記憶している。

スィン氏は野党から「沈黙の人」と批判されることもたびたびあったが、外交政策に関しては優れたコミュニケーターとされた。
外国への公式訪問の際は常に、同行する記者らと少なくとも一度は非公式に話すようにしていた。
帰国途上では、ほぼ必ず機内で記者会見を開き、訪問に関する質問に答え、2018年に自著の出版イベントで「(モーディー現首相と異なり)報道陣と話すことを恐れるような首相ではなかった」と語った。

2017年に復活するまで短命だった「クアッド」との関わりは、スィン首相にとって外交政策上の2大躍進への道を切り開いた。
1つは日本との関わりで、1998年の核実験をめぐるインドの孤立を終わらせた。
スィン首相は当時の安倍首相より「師匠」と呼ばれた。
もう1つは、民生用原子力協定に関する米国との関わりだ。

核拡散防止条約への署名には同意しなかったスィン政権だが、原子力供給国グループから例外的な立場を認められ、米国の協力による原子力エネルギー利用への道を開いた。
元外務大臣でスィン政権の気候変動特使だったシャム・サラン(Shyam Saran)氏によれば、例えば核燃料の「再処理権」をめぐって交渉が行き詰まったとき、スィン首相が多国間サミットの合間にブッシュ米大統領に直接この問題を訴え、大統領から即時の行動を引き出した。

アタル・ビハーリー・ヴァジパーイー(Atal Bihari Vajpayee)元首相が死去した際、スィン氏は、米国との関係、およびパキスタンとの関係の構築で、(現在のインド政治では極めて珍しい超党派の立場から)ヴァジパーイー氏が示した道を(自らが)たどったと語った。
特にパキスタンとの関係は、「中国を含む近隣諸国との関係は、インドが運命を左右する」と述べた。

しかし、米国との関わりがスィン氏に大きな成果をもたらした一方、パキスタンへの働きかけは一筋縄ではいかなかった。
首相就任当初から、スィン氏は2003年のヴァジパーイー・ムシャラフ対話の実現に着手、パキスタンとの平和条約案とジャンムー・カシミール問題解決に関する水面下対話の特使に、ベテラン外交官のサティンダー・ランバー(Satinder Lambah)氏を任命した。
ランバー氏が自著で述べているように、このときスィン氏は合意の範囲について、領土問題に一切影響を及ぼさずに「国境を無関係にする」ことを明言していた。

2009年の選挙直前のインタビューでは、スィン氏は2008年のムンバイーにおける大規模テロ攻撃により、パキスタンとの和平計画が頓挫したことを率直に認めた。
それでも、隣国との関係改善は継続して試みる以外に選択肢はないと考えていた。 
その10年後、スィン氏は(テロ攻撃が)背後にパキスタンの諜報機関である統合情報局(ISI)の明らかな関与があったにも関わらず、パキスタンへの報復攻撃を行わなかったことを厳しく批判されたが、かえってその自制心が国際的な評価を高めたと見る向きも大いにある。

インドが国際的に成熟したのは、スィン首相が国連安全保障理事会の常任理事国すべての首脳をデリーに迎えた2010年だったとされる。
パキスタンとの緊張関係が続いているにもかかわらず、スィン氏は同国の指導者たちとの交流に努め、ユスフ・ラザ・ギラーニー(Yusuf Raza Gilani)首相、そしてナワーズ・シャリフ(Nawaz Sharif)首相と会談した。

実際、パンジャーブ人であるスィン氏の故郷は現在のパキスタンにあり、「テロ対策が変わるまでは首相としてパキスタンを訪問することはできない」と明言しつつも、国境の向こうにある故郷をいつの日か訪れることを希望し続けていた。

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Yoko Deshmukh   (日本語 | English)         
インド・プネ在住歴10年以上の英日・日英フリーランス翻訳者、デシュムク陽子(Yoko Deshmukh)が運営しています。2003年9月30日からインドのプネに住んでいます。

ASKSiddhi is run by Yoko Deshmukh, a native Japanese freelance English - Japanese - English translator who lives in Pune since 30th September 2003.



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